創業物語

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創業物語

私の生い立ちと仕事への思い

私は福岡のとある町で生を受けました。
父は砕石会社の発破技師(ダイナマイト)で火薬の匂いがする職場で
毎日ダイナマイトを仕掛けては発破砕石をする事を生業としていました。

母も町で看護師をしながら共働きで家族を支えてくれていました。
家族は、両親と2人の姉、そして末っ子長男の私の5人家族です。
私の記憶があるのは3才くらいの時でしょうか。
当時、長屋に住んでいて共同風呂、共同トイレ、
共同で使用する井戸の洗濯場と、懐かしい光景が頭によぎります。

もう一つ思い出すのは、
ある日、母が左の胸のあたりを触りながら
「お父さん。なんかコリコリしたモノが出来てるみたいやね」と、
父に言っていた事をかすかにに記憶しています。

父は「お前病院に行ってこいよ」と軽く言う程度、
心配している様子はありませんでした。
数日後、母は精密検査を受け、その結果は乳癌でした。

当時は、癌と診断されたらイコール死というような時代です。
家族全員絶句しました。それは、1971年の冬のことでした。

間もなくして、母の希望により九州大学附属病院へ入院。
「お母さんは桜の花が咲く頃には帰ってくるから」と言い聞かせ
私をなだめていた家族の姿が頭に残っています。

母がいない家族4人の生活がスタートし、
母不在の日々は何か違うと小さいながら感じていました。
父はカレーを作れば3日も4日も夕食はカレー、
肉じゃがを作れば毎日肉じゃが、
今考えれば、父は週一の休みでよく頑張っていたなぁと思います。

3月下旬か4月上旬だったか、
約束通り桜の咲く頃に、左乳房の全摘出手術を終えた母が退院し、
家に帰ってきました。

母は「本当に癌だったの?」と思わせるほどに回復し、
しばらくすると仕事へも復帰。また共働きが再スタートしました。

数年が経ち、小学校低学年の頃は、
学校が終わると、その足で母が勤務する病院へ行き、
外来の長椅子で仕事が終わるのを寝ながら待っていたのを思い出します。

「松本さ~ん、息子がまた外来に来とるよ」という同僚に、
母が「うちの息子がまた来とるとね!」と言って、
寝ている私を起こして家に帰るそんな毎日でした。

私が中学へ進学して間もなく母の癌が再発。
再びの入院生活による闘病、母のいない生活が始まりました。

両親との別れ

その後、母は一進一退の状態が続く中、
私も9年間の義務教育を終え高校へ進学しました。

しかし私が高校1年生、15歳の時に母は長い闘病生活の末他界しました。
また、それから2年後に父親も脳いっ血のため他界しました。

高校生活は残り1年程ありましたが、
2人の姉に頼ることもできず17歳で一人暮らしをして
アルバイトをしながら自力で高校を卒業しました。
両親が納めていた年金は、私が18歳を過ぎているという理由で支給されませんでした。

金はないが何とか生きていける試練と思うしかない!
まわりからは大変だね、一人で偉いねと言葉をかけてもらいました。
しかし、大変とか偉いとかそんなことを考える暇もなく短い学生生活は終わりました。
今思えば、これも私を強くしてくれた要因だったのだと思います。

全ては考え方!!転機となった営業職の経験

高校卒業後、CADやマシニング/旋盤などを扱う機械加工の会社に入社、
専門分野の職業に就き頑張っていました。
しかし、時代はバブルの崩壊で会社が破綻。私は無職になりました。

25歳の頃です。遊ぶわけにはいかず、私が就職先に選んだのは
求人情報の中でも特に目立っていた物販の会社でした。
面接後、採用が決まったのですが、会社は社員のほとんどが営業マン。
実力者至上主義の会社でした。
この会社への就職が、私の「仕事への向き合い方」の礎を築く
機会に巡り合えた瞬間でもありました。

とにかく成績が良い人間が一番偉い、成績が振るわない人間は
相手にされないし発言も聞いて頂けない会社でした。

それでも頑張るしかないと奮起する毎日。
営業の仕事に就くのは初めての経験ですので、本当に大変でした。

お客様のご自宅に行っては過度の値段交渉をされ、
いきなりの不条理な罵声、怒声。
また営業成績が振るわないと会社で上司からの必要以上の𠮟責を受けました。
いつか、仕事で上司を超えることばかり考えていた毎日でした。

しかしこの様なお客様や上司がいたことがきっかけで、
仕事に対する接客を見直し、上司を越えなければいけない意識が上がり
仕事力は著しく向上しました。

それからはお客様への対応力は上がり、それまで嫌と思っていた上司も
この様な上司がいたからここまで出来たんだと
不思議に感謝する気持ちの方が大きくなりました。

結局は考え方で全ては変わる!!人の見方も変わる!!

営業活動をする中で印象的な出来事もありました。

同僚がお客様宅に商談に入っていた時の事です。
お客様宅へお邪魔してからたった30分で私に、
「お客様が今回の購入はお断りしたいそうです」と、報告がありました。
その報告を受け、私は商品を引き取りにお客様宅へ出向きました。

ピンポーンとお客様宅のインターホンを押し
「こんにちは○○会社の松本ですが、うちの社員がお邪魔してご迷惑おかけしていませんか」と言うと、

お客様がキョトンとした顔でこうおっしゃいました。

「あなた3年前私の自宅に来られましたよね?」

私は全く覚えていませんでした。
3年前、お客様が以前住まわれていた家に私が訪問し、
ある商材を勧めたのだそうです。
「お金が苦しいから今回はお断りしたいと伝えると、
貴方はこの上ない笑顔でとても親切に対応して下さいました」とお客様。

そして私が「お客様のご家庭にとって必要なモノですので、
また余裕が出来た時にでもお声掛けください」と言ったのだそうです。

「その態度を見た時に、遠慮なく断ってしまったことが
気の毒になりました」とお客様は言って下さいました。

そして次の瞬間
「あの頃の我が家は、金銭的に非常に苦しかったのですが、
今はマンションを買えるくらい生活が楽になりました。
今回お断りしようと思ったのですが、この商品を買わせて頂きます」と言われ、
私と1、2分の会話で買ってくれたのです。

このことは、私の教訓となり、今なお私の中に根付いております。

もしあの時、私がお客様の断りに対し険悪な態度をとっていたら

もしあの時、私がそそくさと言葉足らずな対応をしていたら

こちらの都合だけで物事を捉えていたら、
このお客様には違った対応をしていたに違いありません。

私はお客様に生かされていることを痛感し、
お客様を大切に出来ない人や会社は必ず業績は落ちていくと理解しました。

本当に必要なものをお客様へ

1993年~2007年まで物販の会社で勤務し、
2007年から住宅設備を販売する自営業を始めた頃、前職で一緒に仕事をしていた同僚から
「是非会って頂きたい若者がいます」と紹介されたのが、現弊社マネージャーです。
 

この頃は、事務所らしいものが無かった為、最初に会ったのは喫茶店。
そこで彼が来るのを待ちました。暫くすると彼が現れ、対面することになります。

最初に交わした言葉は、「年齢はいくつになるの?」でした。
「21歳です」と即座に答えたのを覚えています。

それから暫く雑談を重ねていくうちに、大方の人間性や夢、何を望んで、
どのくらい本気で仕事に向き合っていきたいかなどを知り、彼の将来性を感じました。

しかし、当時私は一人で働いていて、ある程度の生活は出来ていましたので、
そのスタイルを継続し仲間などは作らず、一人で仕事をしていくことを考えていました。

ところが、彼のヤル気や情熱を感じ、二人で仕事に取り組むこととなったわけです。

また、二人で一緒に仕事を重ねながら、彼の仕事に対する姿勢や我慢強さを見るうちに、気付かされるものがありました。
「私は、真剣にこの若者と付き合わねば」と。

二人で始めて早10年が経ち、今の安心頼ホームに繋がっています。

当時は2人共、右も左も分からない状況の中、
実際に現場でお客様から沢山のお声などを頂きながら、
必要とされると思うツールや販促品を一から揃えていき、
日々お客様の為を想いながら、本当に試行錯誤でした。

なんせ、初めての仕事内容でしたから、
今思えば、外部の知識や知恵も導入せず、よくやれたものだったな

と、今は思っています。 

マネージャーと2人で個人宅のみならず、
お寺・幼稚園・美容室・飲食店・電気屋・様々な所に飛び込んでいき、
商品を紹介したものですよ。

仕事用で使っていた靴は1カ月くらいで買い替える程、現場を歩き回っていました。

今考えると、非効率な動きが多々あったと思いますが、
様々な経験が現在に繋がっている事を考えると、貴重な経験をしたと思っております。

まず始めに取り組んだ商材は、オール電化。

会社より1時間以内の範囲と区域を決め、
省エネ機器のエコキュート給湯器及びIHクッキングヒーターのご紹介と販売させていただいた結果、
数多くのお客様にご縁を頂くことができました。

今考えると、良くも悪くも、この頃が最も思い出深い出来事がたくさんあったと感じます。

自営業を数年行った後、平成22年8月にマネージャーと共に小さな事務所を作り会社を設立。

販売商材は、オール電化/太陽光発電/住宅リフォーム/火災保険申請事業など、
当時に比べ、お客様一人一人に合った、幅広い商材や商品をご紹介できるよう増やしていきながら事業を拡大し、
また、一緒に働きたいと思ってもらえる従業員も少しづつ増えていきました。

そしてこの翌年、平成23年3月11日に東日本大震災が発生しました。
通常納期は契約から数週間のところ、震災後の納期や工事は半年後以上、、、被災地優先の関係で設備物資が滞りました。

納期や工事の延期について、マネージャーと2人で、お客様のお宅を一軒づつ訪問し、
お詫びして歩いたことを今も覚えています。

その時、お客様はみなさん、
「しょうがないですね、こんな時だもの。
東北の方は苦しい思いをされているのに、工事が遅れるぐらい大丈夫ですよ」と、
とてもとても温かく受け入れて下さいました。

本当にお客様に心から感謝し、こんなときだからこそ、お客様の為になる仕事を優先しようと考え、取り組んでいきました。

特に火災保険申請事業では、お客様より感謝のお声や感動のお手紙を頂いたことも多く、
それが仕事への意欲へと変わりました。

また、お客様が本当に望んでいることを続けていれば、自然に会社は、発展へ繋がるのだと思いました。

 

初めは少数しか居なかった会社ですが、一人一人のお客様によって成長することができ、
今では多数の従業員とチームを創ることが出来ております。

 

平成28年には、福岡本社を現事務所へ移転し、同時に広報部を設立。

平成29年6月には、鹿児島支社を出店。

南九州地方は、災害地域(台風の直撃や桜島の噴火による灰の被害等)と言われていることもあり、
鹿児島や宮崎にお住いのお客様の為にも、何か尽力出来ることはないか、
事業に繋げられることがあるのではないかと考えており、
また、責務を任せることができ経験豊かな、現、鹿児島支社/支店長の井上というリーダー的存在がいたので、
複数人で出店の運びとなりました。

福岡本社と鹿児島支社合わせて規模も拡大し、
平成30年1月より総合住宅リフォーム保全事業に加え、新たに再生可能エネルギー環境事業を追加しました。

この事業も、将来的にはお客様より本当に望まれる事業と確信しておりますが、
様々な情報が錯綜しておりますので、本当の情報を的確にお客様にお伝えして、
最良の判断をして頂くことを第一に考えております。

 

世の中はエネルギーで成り立っています。

昭和の時代は石炭~石油、
平成の時代は石油~自然エネルギーと時代と共に移り変わり、   
今後は間違いなく再生可能エネルギーにスポットがあたり、

 

地球温暖化を軸に様々な負のイメージを払拭し、
それを伝え広めていくのは我々の責務と実感してなりません。

これからは住宅関係工事全般の事業推進で、
お客様の話を良く聞き取り、お客様のニーズを感じ考え、
お客様に最良の提案が出来、
お客様と共に歩んで頂ける会社を目指し邁進していきます。

 

代表取締役 松本 政洋

安心頼ホームからの情報いろいろ!

〔営業時間〕10:00~17:00 〔定休日〕毎週火曜日/第1第3月曜日(隔週は連休となります)

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